Borderless eyes of sports

Feature

横乗り・アート・音楽、様々なフィールドで感性豊かな<ライン>を描くスタイルマスター

コンディションばっちりの雪山だけでなく、グッドスウェルの入ってきた湘南のクラシカルなリーフポイントのラインナップ、あるいは今はなき新宿リキッドルームで爆音ドラムンベースが流れるスピーカーの目の前、日本に入ってきたばかりの頃のピストバイクシーン、様々な場所でプロスノーボーダー 高橋信吾を見かけた。

横乗りの現場やストリートで“ヤバイ”と噂される場面には、彼がいた。しかし、高橋信吾の感性やアンテナは、時として“早すぎた”のかもしれない。ここ数年はサーフィンにどっぷりだった彼がスノーボードシーンに戻ってきた。

なぜ、今スノーボードなのか?
そもそも、高橋信吾は何を目指しているのか?

Who are U?

MADE IN JAPANの板の可能性に気づいた高橋信吾は、スノーボードの“シェイプ”にフォーカスしている。
フォトグラファーTochiと組んで、“ピンクスノーワールド”を表現したアート展の作品。信吾のスタイリッシュさが存分に。

&FLOW(以下、F):様々なフィールドで活動している信吾くんですが、ひと言で自己紹介するとどんな表現になりますか?

高橋信吾(以下、S):「プレイヤー」で「アーティスト」だと言っています。一番得意に表現できて、自分の核にあるのはスノーボードだけど、アートもするし、音楽もやるし、サーフィンも。
どのシーンでも一番刺激的な場所にいるのが「プレイヤー」であり、すべての活動は「アーティスト」として表現すること、という感じです。

F:横乗り(スノーボード/サーフィン/スケートボード)を始めたのはいつ頃ですか?

S:スケートボードも乗ってたんですけど、特別スケーターだったっていう感じではないんですよ。だから、ボードスポーツの最初っていうとサーフィンかな。高校に入ってすぐ16歳の頃、練馬から鵠沼まで電車サーファーしてました。スノーボードを始めたのは18歳でしたね。

クラシックなシングルフィンでメローな波をクルーズ。クロスオーバー横乗りコンテスト、THE SNOWSURFERS 2でも優勝の実績。
1997年マウントフッドでのライディング。まだまだスノーボードシーンの過渡期、そのスタイルで存在感を発揮した。

F:スノーボードよりもサーフィンが先だったんですね。

S:スノーボードの前はスキーをやっていたんですよ、実は。実家は東京の練馬なんだけど、高校まではいろんなところを転々としていて。親父がプロスキーヤーだから、志賀高原にいた時もあったり。
自分が高校生の頃はスキーが人気だったから、スキーインストラクターのバイトをしに行ってたんだけど、そこで(スノーボードの)クレイグ・ケリー (*1)のビデオを観たのが、スノーボードを始めるきっかけ。スキーやっていたから、ゲレンデにいるアルペン系のスノーボーダーしか見たことなかったんだけど、パウダーの世界を初めて知ったのはその時かな。

(*1 編集部注)
クレイグ・ケリー:スノーボード界のゴッドファーザー。初のシグネチャーボードの発売、ビデオや雑誌でライディングが登場することでのインセンティブ・フィーを獲得することなど、彼がシーンにもたらしたことは革命的だった。2003年、カナダのレベルストークの雪崩事故で帰らぬ人となる。享年36歳。

F:1990年以前のことですね。その頃のスノーボードシーンはどんな感じでしたか?

S:最初に観たクレイグ・ケリーのビデオがどうだったかっていうとあんまり覚えてないけど、僕が憧れてハマったスノーボードは、コンテストではない。森の中から出てきて、岩の上をぶっ飛んで、でっかいパウダースプレー飛ばしてっていう世界。ウエアは黄色だったり紫だったりのネオンカラー。車はデッカイ四駆乗って、キレイな彼女連れて、とか。スタイルとして新しくてカッコ良かった。
サーファーでそういうスタイルも見たことあったけど、スノーボードはまた違う世界で、しかもサーファーもみんな憧れてた。当時の自分たちからしたら、「今っぽくて、ストリート感があって、自分たちにピッタリ」、そんなスノーボードカルチャーでした。

昨年、鎌倉VANAVASAで開催されたアート展にて。“俺はオレ、我が道をいく”そのアティテュードを、彼は<PUNK>と言う。

F:スノーボードは最初からハマったのですか?

S:そうじゃないんだよね。スノーボードをやるためにアメリカへ行ったんだけど、最初は海外のスノーボードのレベルについていけなくて、一度スキーに戻ったんだよね。それでもやっぱり日本に帰らないでスノーボードしたいって、当時はまだまだ珍しかったワーキングホリデーでカナダ・ウィスラーへ行きました。アメリカとカナダを行ったり来たり、結局3年くらいいたかな。カナダで『WESTBEACH(ウエストビーチ)』や『Luxury(ラグジュアリー)』っていうブランド(のスポンサード)をもらったりして。その後、日本に『JOYRIDE(ジョイライド)』を入れるタイミングで、ライダーを探していたから、自分から名乗り出ました。

F:帰国したのは21歳頃ですか?90年代になると、日本でもスノーボードバブルになりましたね。

S:そう、21歳で帰国しました。夏にニュージーランド・ナショナルで優勝して、その年の冬に日本オープン(ハーフパイプ)に出場したのかな。当時は、本当にスノーボードバブルでしたよね。その頃から十数年、『G-SHOCK』にもスポンサードしてもらっていたんだけど、原宿駅のホームの『G-SHOCK』のでかい看板に、僕が出てたしね(笑)。

F:今はオリンピックなどで広く認知され若い選手も多く活躍していますが、一方で若者を刺激するユースカルチャーだった背景は薄れてきているように思います。この現状をどう感じていますか?

Sシーンとしては成熟したんでしょうね。オリンピックでトップ(=金メダル)を獲れるくらいだから。
ハーフパイプだと、もう世界は日本の選手のレベルにしばらく追いつけないらしい。日本でオリンピックに出場できない女子選手でも、その辺のヨーロッパの男子より上手いらしいから。他の国のトップの男子よりレベルが高いみたいです。だから(平野)歩夢とか、もうハンパじゃない感じ。
そういう風にシーンが成熟した上で、今は、もっと根源的に人間が必要としていることとスノーボードがリンクしてきていると思う。それが大自然の中で滑ることの醍醐味。スノーボードだけじゃなく、世の中がアウトドアだったり、ナチュラルフードだったり、オーガニックだったりに向いてるでしょ。今はそういう感性や価値観の方向へ向かってると思います。

その感性が“いつも早すぎる”と言われた高橋信吾が、今スノーボードシーンに戻り、伝えたいことは…自然へのリスペクト。
そのフットワークの軽さが、東京出身の横乗りアーティストの魅力。グッドコンディションのエリアでは、彼の姿を発見できる。

F:近年はサーフィンが中心だったけど、今、またスノーボードに戻ろうと思ったきっかけは?

S:もう昔だけど(2003年)クレイグ・ケリーが亡くなって、自分もいつか絶対死ぬんだなと思って。それから、残りの時間をどう使うかっていうのは考えるようになりましたね。
鵠沼に店を出して、プロサーファーになりたいと思って本気でやっていました。でも、40歳になって限界も感じる時が来て、「最後にもう一度、僕にしかできないこと」っていう思いでスノーボードに戻りました。タイミングもありましたね。2〜3年前かな、MADE IN JAPANのスノーボードが世界一のレベルになってるってことを、西田洋介くんや彼の周りの仲間に教えられたのも大きかったです。

F:板のプロデュースもスタートさせたんですよね。

S:プロデュースというか1本ずつ手作業で板を作っていて、僕らはそれをシェイプって呼んでるんですよ。サーフボードはシェイプするカルチャーがあるけど、スノーボードは大量生産しか知らなかった。だけど、スノーボードの匠の技がすごいことになってたんですよね。職人の中に入ったら僕なんか経験値は浅いけど、滑りはやって来たから、僕にしかできないものもあるかなと。
切り落としてサイドのウォール作ったりとか、エッジも曲げてるし、裏のマークとかも全部自分で入れてます。僕の板はブランド名としては『シンゴシェイプ』とか、そんな感じかな。Sobut Brand (*2)時代の自分のシグネチャーボード<HITRIBE(ハイトライブ)>をベースに、あらゆる面でアップグレードされている。ファーストデリバリーで11本、12月にようやく仕上がりました。今後は、いろんな山にプレス機を増やして、スノーボードシェイパーを作っていこうっていうプロジェクトなんですよ。

(*2 編集部注)
Sobut Brand:2000年代に高橋信吾とその仲間が始めたスノーボードブランド。フリースタイルスノーボーダーがバックカントリーライディングを視野に入れたスノーボードブランドとしては先鋭的だった。
サーファー・スノーボーダー・スケーターが口にする「スタイルがある」というセリフ。“スタイルとは何なのか”、それを聞きたくて、高橋信吾と話をしたいと思った。

F:スノーボードは「一番得意な表現」ということですが、今、どんなライディングで何を表現したいですか?

S:僕が今ハーフパイプに入って、今の(平野)歩夢とかよりヤバい滑りをしたいっていうわけじゃないんですよ。スノーボードのシーンは、カズ(=國母和宏)や若い奴らに任せてるから。もっと大きな意味でいろんな取り組みや、伝えたいことをスノーボードで表現していくのが役目かなと思います。
例えば、『バートン』は乳がんに関する運動をしてたり、お金を寄付するとか、世の中を変える運動してるでしょ。僕のやり方はそんな真面目じゃないけど、スノーボードとか横乗り代表として、「山へ行くって楽しいよ」って、気持ちいい姿を見せる。パウダーでの滑りだとしたら、僕らは<一筆書き>って言っているんですけど、山に一本線引くように滑る。自分の中では、アーティストとしてドローイングで表現するのと同じ感覚。そういうヤバい滑りで、<自然と遊ぶことの気持ち良さ>を伝えたいですね。

F:今のスノーボードシーンに求めるものはありますか?

S上手い子に限って辞めちゃうんですよね。カズ(=國母和宏)や(平野)歩夢の周りにいる子らも、上手い子いっぱいいたのに、気がついたら違うことやってたりとか。彼らがスノーボード以外でも発揮できる能力があるのはわかっているんだけど、大会で競い合いすぎて、純粋に楽しめるスノーボードがないのかな?と。
技をメイクする充実感や、点数を出す充実感、それらはもちろん素晴らしいんだけど、山の上で胸がいっぱいになる感覚とか、全身で大自然を感じながらライディングをしていく感覚とか、感極まって涙したり、仲間と抱き合う感覚とか。
鹿とか鷹とかしか見えない環境で滑っていると、五感が研ぎ澄まされるようななんとも言えない感覚になる。それが最高なんですよ。「大自然の中で感じる、純粋なスノーボードの楽しさも忘れないで欲しいな」と思います。

自らのアートワークを施したスノーギアを身にまとう高橋信吾。一番刺激的な場所にいる「プレイヤー」であり、すべての活動は「アーティスト」としての表現である

F:競技レベルが上がって「FUN SNOW」の感覚が薄れてしまっているのでしょうか。

S:大会で日本のために勝つとか、もちろんそこも必要なんですけどね。海外だと、一般の人もものすごいお金かけてスノーボードをやっていますよ。ジャクソンホール(アメリカの有名なパウダーゲレンデ)とか、1日券が1万8,000円とか。ゲレンデまで歩いて行ける駐車場が6,000円とかなのに、ゲレンデは満員で流行っている。高すぎてセレブに偏っている部分はあるけど、<大自然の中で遊ぶ雪山の楽しさや価値>をわかっているんでしょうね。
だから日本も、一周まわってやっぱりスノーボード楽しいよねっていう世代…、昔はスノーボードやっていた30代、40代、50代とか、そういう世代にもっと流行って欲しいですね。
スノーボードがワールドレベルになって入り口が広がって、今は、もうひとつ変わる時期。競技だけじゃないスノーボード、自然の遊び方を伝える。それが、僕が今スノーボードシーン、雪山にいる理由ですね。

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Mayu

Mayu

Writer

鈴木まゆ / 東京生まれ・茅ヶ崎在住。女性ファッション誌で編集業をスタート。ファッション、カルチャー、ライフスタイルなど、様々な雑誌、ムック、書籍などを担当。現在はエディトリアルから広告物まで、幅広く制作業に携わる。プライベート時間はヨガとゴルフ、家ではドラマを観ながら晩酌の日々。

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